現代につながる『源氏物語』の世界

現代につながる『源氏物語』の世界

大津 直子

表象文化学部 日本語日本文学科 准教授

#3 「卑下」の態度に徹することで立場を確立する『源氏物語』の女君【大津 直子】

平安時代の女性は生きづらさを抱えていたと、大津先生。未婚か既婚か、子を産めたか否か、どのような家柄に生まれたかによって生き様は変わってきます。なんだか、現代の私たちをとりまく環境と、どこか似ているところがあるのかもしれません。『源氏物語』に登場するある女君のしなやかな生き方を、「卑下」という表現を通して見てみましょう。

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川添 前回に引き続き、「現代につながる『源氏物語』の世界」をテーマにお話をお伺いするのは、表象文化学部日本語日本文学科准教授で、平安文学がご専門の大津直子先生です。本日もここ京都にあります、同志社女子大学のキャンパス内からお送りしていきます。それでは先生よろしくお願いいたします。

大津 よろしくお願いします。

川添 前回に引き続き、現代の言葉から『源氏物語』を深掘りしていきたいと思っております。今回も復習として、『源氏物語』がどのような物語なのか、改めて教えていただいてもよろしいでしょうか。

大津 はい。『源氏物語』は70年くらいの時間が流れ、4人の帝が登場する長編の平安時代の物語です。光源氏が生きていた時代と、光源氏の死後の世界という正編と続編の二つにわかれていて、後半の13巻では光源氏は死んでいるということになります。『源氏物語』というタイトルからすると光源氏が主人公と説明したくなるのですが、主人公だとすると後半13巻はいないというのも不思議なのですが、そういう構成だと、理解されるといいかと思います。

川添 ありがとうございます。前回もお伺いしたんですけれど、使われている言葉に現代でもなじみのある言葉があって、それは今、使っている意味合いと同じもの、それとも違うように使われていたものという切り口で、『源氏物語』を紐解いていけるというお話がありました。今回、また何か一つ、言葉を挙げていただいて、深堀っていくような形で進めたいと思います。今日はどんなご言葉で、ご紹介いただけますでしょうか。

大津 そうですね、やはり『源氏物語』の魅力というと、女君たちの多彩なキャラクターかと思います。その中に明石の君という女性が出てくるんですが、彼女の人物造形を印象づける表現として、「卑下」という言葉を例に挙げてみたいと思います。

川添 卑下ですね。

大津 「そんなに卑下しないで……」とか、現代でも使うと思うんですけれど、非常に特徴的に『源氏物語』の中で用いられています。

川添 今の時代で卑下という言葉を使う場面としては、自分を相手よりも下に見せるというか、劣っているように表現するときに、卑下するっていうような言葉の使い方をするのかなと思うんですけれども。

大津 前回、(平安時代の貴族社会は)序列社会だという話をさせていただきました。川添さん、もしかしたら(この言葉は多用されていると)思われているかもしれません。実は『源氏物語』を調べると、あるいは『源氏物語』よりも前の、かなの文学作品を見ると、あまり「卑下」という表現は出てこないんです。『源氏物語』には非常に多様な語彙があるわけですが、たった12回しか(「卑下」という言葉は)使われていません。先ほど、明石の君の人物造型を読み解くときのキーワードとお話したのは、その12例のうちの5例が彼女に集中して用いられているということを踏まえてのことです。

川添 ほぼ半分ということですよね。どういったふうに使われているんですか?

大津 明石の君がどういう女性かということを、最初にご説明しておきます。光源氏って、たくさんの女性と恋をしたイメージがあると思うのですが、実は実子が3人しかいません。

一人はすごく有名だと思うのですが、藤壺(※)と密通をして間に生まれ、帝になる冷泉帝という人です。もう一人は早くに亡くなってしまいますが、正妻である葵の上との間に生まれた夕霧という人です。この二人は男の子なんですけれど、一人だけ娘がいます。その娘を産んだのが、明石の君という人です。この人は光源氏の妻たちの中でも身分が低く、そのことを非常に強く自覚している女性でもあります。
※光源氏の父帝のもとに入内し、冷泉帝を産んだことによって皇后になる。光源氏にとって生涯のあこがれの女性

自分が産んだ娘を、彼女は当時の正妻格であった紫の上という人に譲るということをした女性です。これは彼女の人生の中でとてもつらかったことであろう大きな出来事でした。

川添 明石の君という人がどういう方かというのが、背景からわかりました。この方に関して「卑下」という言葉が使われている例が、(『源氏物語』の)全体で半数ぐらいを占められているということで、どんなシーンに使われていたとか、そのあたりをお聞きしてもよろしいでしょうか。

大津 そもそも、「卑下」という表現が使われていないということが、すごく不思議かと思うのですが、それは当たり前だったからだと思います。

川添 当たり前。

大津 はい。身分によってなすべき振る舞いというのは決まっているから、だから逆に書かれなかったと思うんです。では、明石の君がどういうときに「卑下」をするでしょうか。彼女は自分の娘を手放して、自分の立場がそれによって安定的になっていけば、なっていくほど「卑下」をする姿が描かれます。そもそも、なぜ(明石の君という)実母がいるのに、(光源氏の正妻である)別の人に娘を譲ったのかということですが、当時はどんなお母さんから生まれるかということが、子どもの将来を決定しました。ですので、実母の身分が低いと、その後のことに関わる。光源氏は自分の娘が妃、天皇の妻になるということを予言で知って、これは正妻である紫の上に預けようということになるわけです。

明石の君は、そんな形で娘を奪われたら、光源氏がもう来なくなってしまうんじゃないか、という心配もするんですけれど、娘のことを信じて、託すわけです。そういうつらい体験をしながら、どんどん、どんどん、ますます「卑下」の態度を強めていく。でもこれがおもしろいところなんですが、光源氏の死後の世界に至ると、光源氏のつくった世界というのは、明石の君の一族のためにあったと回顧されるくらいに、盤石な生き方を展開するんです。その転機が、この「卑下」という態度なのではないかと思い、昔、論文を書いたことがあります。

川添 そうなんですね。誰から生まれたかが大事というお話は、前回からお話をお聞きして、(平安時代の貴族社会は)序列社会という前提があるというところなんだな、と。

大津 そうですね。誰から生まれるかを重視する社会通念は、平安時代はすごく強くて、(古典文学には)「何々腹(なになにばら)」という表現がしばしば出てきます。明石の君が明石の姫君を譲ったのも、結局、姫君の実母が自分だということが、貴族社会にとっては都合が悪いと。ですから、学歴ロンダリングという言葉がありますけれど、出自のロンダリングを行うという決断をするわけです。

川添 誰のおなかから生まれるかというのは、どのように使い分けがされているんですか?

大津 例えば光源氏は光るように美しい、当代の貴公子だと思うのですが、光源氏を知らない人が光源氏のことを呼ぶときに、「桐壺の更衣の御腹の、源氏の光る君」と呼びます。光るように美しい、は最後です。桐壺の更衣、更衣というのは天皇の后の位の中では、そんなに高くはありません。つまり「更衣腹(こういばら)」の「源氏の光る君」なんです。誰のおなかから生まれるかというのが、その人の特徴とか属性の最初に来るんです。

川添 本当に生まれながらに位がちゃんと決まっているというか、生まれる前から決まっているみたいな感じですね。

大津 そうですね。序列社会だとお話しした前回の内容にも関わるのですが、嫡子といって正妻から生まれた子どもと、正妻ではない人から生まれた子どもは、スタート地点が違います。これはもうかなりシビアな、平安時代の、あるいは貴族社会のルールです。それをわかっている明石の君が、「卑下」という態度をかみしめながら生きていく。私は『源氏物語』の中で、一番敵に回したくない女性は明石の君なんです、実は。なんというか、メンタルお化けといいますか、強い。

川添 そうですよね。

大津 非常に理知的ですし、「身のほど」という、自分の身分とか出自ですね。明石という土地(※)で育った、平安京ではないところで育ったということも、彼女の負い目としてあって。
※現在の兵庫県明石市

川添 なるほど。

大津 そういう彼女がどういう形で、光源氏と身分の高い女性たちとの関係を泳ぎ切るのかというのも、『源氏物語』の中のおもしろい点です。『源氏物語』を卒論で書く場合、圧倒的に学生たちには紫の上が人気なんですけれど、明石の君は一筋縄じゃいかない。前回、ガチャという言葉を使いましたけれど、それこそ家柄ガチャの中で見事に泳ぎ切った人だと思います。かなり私の中では、敵に回したくない。

川添 自分の子どもを手放して、失意どころではない、いろいろな気持ちを奥底に抱えて、でも、そういう世界で生きていくのに、自分を「卑下」しながら?というのか、そういう形で生き抜いていく女性って、強いという言い方とはちょっと違うような気もするんですけれど……。でも「自分はこうだ」という、何か一つ、貫いたものを持っている女性というように、今聞いたお話で感じたところです。

大津 光源氏(から明石の君へ)の罪悪感を非常にうまく逆手に取っているところもありますし、あと彼女は情報戦も強かったと思います。他の妻のとこで、光源氏がどういう振る舞いをしているかというのも、よくわかってるんです。

川添 へぇぇぇ。

大津 だから持っている条件を最大限に活かして、知恵を絞っているところが、非常に骨太な感じもします。

川添 したたかさも、ちょっと見える感じがします。

大津 (明石の君が)健気で可憐だという論文もありますけれど、私のイメージは圧倒的に「敵に回したら怖い」(笑)。繰り返してすみませんけれど。

川添 そういう見方をするのも、本当におもしろいですね。ありがとうございます。2回目の前回と3回目の今回は、一つの言葉を通して『源氏物語』を深掘りしていくという形でお話の方は進めてきましたけれども、次回が最終回ということになります。最終回は、初回のときにも少し先生からご紹介があった、谷崎潤一郎が訳した『源氏物語』をご紹介いただきたいと思います。最終回まで、どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

大津 ありがとうございました。