京都旅のおともにしたい、古典文学

京都旅のおともにしたい、古典文学

吉海 直人

表象文化学部 日本語日本文学科 特任教授

#3 今も人気の葵祭を『源氏物語』から考察【吉海 直人】

現代の京都でお祭りといえば葵祭、祇園祭、時代祭の「三大まつり」。いずれも京都らしさが感じられると観光客からも人気です。番組では「葵祭」をクローズアップ。歴史から『源氏物語』のワンシーンまで、吉海先生にお聞きしました。葵祭のにぎわいも、古典視点で見ると興味深いものになりそうです。

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Transcript

色付き部分は古典の引用です

川添 前回に引き続き、「京都旅のおともにしたい、古典文学」をテーマにお話をお伺いするのは、表象文化学部 日本語日本文学科 特任教授で、平安時代の文学がご専門の吉海直人先生です。本日もここ京都にあります同志社女子大学のキャンパス内からお送りしていきます。吉海先生、よろしくお願いいたします。

今回は「お祭り」がテーマですね。京都でお祭りといいますと、夏の風物詩として祇園祭なんかは、メディアでも大々的に取り上げられますし、これを目当てに京都観光をされる方も多いですね。私たちの同志社女子大学今出川キャンパスも、京都御苑の真北に位置していますね。

吉海 京都の大学で学ぶ利点の一つは、年中行事やお祭りを、その当日に体験できることです。お祭りなどは当日に見学しなければ、臨場感は得られません。

現在、京都の三大祭りというと、「葵祭」「祇園祭」「時代祭」が挙げられます。祇園祭の起源は、貞観(じょうがん)11年、(西暦)869年に疫病を鎮めるために神泉苑(※1)に66本の鉾を建てました。66本というのは、その当時の日本の国の数です。それが、祇園御霊会となったわけです。貞観18年、876年に祇園社が勧請され、安和3年、970年以降、毎年行われるようになりました。
※1 京都市中京区にある寺院

ただし、現在のような山鉾巡行は、鎌倉時代以降とされています。

川添 そうなんですね。

吉海 しかも、この祇園というのは、平家物語の冒頭でおなじみ、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とありますよね。

川添 ありますね。

吉海 本来は仏教の祇園社のことでした。それが明治になって、廃仏毀釈が行われた際、八坂神社の祭礼として行われるようになったのです。昔から八坂神社の伝統的な行事と思われているようですけれども、実は仏教から神社に変わっていますね。

川添 そうだったんですね。

吉海 時代祭は、明治以降に始められた新しいものです。平安遷都1100年を記念し、明治28年に始められました。10月22日というのは、桓武天皇が平安京に遷都したのが旧暦で延暦13年、794年、10月22日だったからです。

時代祭に合わせて平安神宮が創建され、大極殿を模した朝堂院(ちょうどういん)が復元されました。ぜひこれも見学してください。

川添 はい。

吉海 その時代祭には、平安時代の装束を着た人たちがたくさん登場するので、当時の衣装を見ることができます。当然、清少納言と紫式部も登場しています。

川添 前回のエピソードでお話が出てきましたね。

吉海 小野小町もいるんですけれども、小野小町が活躍した850年頃は、まだ十二単ではなくて、非常に動きやすい唐様の衣装だったので、なんと小町は徒歩です。歩いています。

川添 えぇ、そうなんですか(驚き)

吉海 歩いています。清少納言と紫式部は十二単を着ているので、歩けなくて、台車に乗っています。

川添 そうだったんですか。

吉海 ただ、2人はほぼ同時代で、しかもともに宮仕えの女房ですから、衣装では区別できません。髪型でも区別できません。どちらがどちらなのかは、立て札を見ないとわからないんです。やむを得ず、清少納言は唐衣裳(からぎぬも)という正式な十二単にして、紫式部はその唐衣裳をつけていない袿姿(うちきすがた)にしています。もし茶目っ気を出して、2人が入れ替わったとしても、それに気づく人はほとんどいないと思います。

川添 パッと見た目には、同じ十二単にしか見えないってことなんですね。

吉海 区別はつきません。

ほかにお盆の大文字も有名ですね。同志社女子大学の楽真館の屋上からは、大文字の送り火がよく見えます。これも大学の隠れた財産の一つだといえます。

川添 ということは、今のお話でいくと、平安文学の中で登場してくるのは、葵祭だけになってくるんですか。

吉海 はい、そうです。葵祭というのは、旧暦4月の中の酉の日に行われる賀茂神社(※2)の例祭です。
※2 現在は賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉と賀茂御祖神社〈下鴨神社〉にわかれている

平安時代において、単に“祭”といえば、この葵祭を意味するほどに有名でした。平安時代には、葵祭のことを「北の祭」とも称しています。それに対して、9月に行われる岩清水祭のことを、「南の祭」と称していました。二つとも宮中から勅使が派遣される、重々しい祭りです。

川添 岩清水祭っていうのは、京都府の八幡市でしたかね、石清水八幡宮があると思うんですが、そこのお祭りっていうことですよね。

吉海 はい、そうです。

川添 葵祭と関係性があったとは全然知らなかったです。

吉海 「勅祭」という勅使が派遣される祭というのは、この二つですね。なお、葵祭の“葵”というのはもちろん、桂と合わせてかざし(※3)に用いられる植物のことです。もっぱら二葉葵、別名賀茂葵とも言ってますけれども、そのために、葵祭という別称が生じました。
※3 頭髪や冠に差す飾りを「かざし」という

ただし、葵祭という名称の初出がすごく新しくて、どうも近世をさかのぼらない。ご承知のように、葵は徳川家の三葉葵と通じるところから、どうもですね、徳川家がいかにも自分たちの祭であるかのように思わせるために、積極的に葵祭という呼称を広めたという説もあるくらいなんです。

川添 なるほど。では葵祭という言い方自体は、かなり新しめっていうことですね。

吉海 はい。

川添 その葵祭は、『源氏物語』の中ではどのように描かれているんですか。

吉海 『源氏物語』における葵祭の見どころは、葵祭見物で、葵の上と六条御息所が車争いをするところです。これはよく絵にも描かれています。

その葵祭は、「世の中変りて後」という帝が交替するところから始まっています。桐壺帝が譲位され、朱雀帝が即位したことを述べたものです。帝の交替に連動して、斎宮、斎院も交替になりました。その斎院については、「そのころ、斎院もおりゐたまひて、后腹の女三の宮ゐたまひぬ。帝、后いとことに思ひきこえたまへる宮なれば、筋異になりたまふをいと苦しう思したれど、他宮たちのさるべきおはせず、儀式など、常の神事なれど、いかめしうののしる」と、弘徽殿腹の女三の宮が選ばれています。

新朱雀帝にとっては、即位した最初のお祭りです。そのため儀式を見栄えのいいものにするために、光源氏の参加が要請されました。

御禊(ごけい)の日、上達部など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど、おぼえことに容貌(かたち)あるかぎり、下襲の色、表(うへの)袴の紋、馬、鞍までみなととのへたり、とりわきたる宣旨にて、大将の君も仕うまつりたまふ。

「容貌あるかぎり」とあるので、今回は特に容姿端麗な人が選ばれています。その上「とりわきたる宣旨」で、光源氏も行列に供奉することになります。

川添 光源氏って、『源氏物語』の主人公で、割とハンサムっていうか美男子っていうふうな描かれ方を、たしかされてたんですよね。

吉海 はい。今でいうアイドルです。普段は姿が見られません、顔も見られませんが、行列では顔を見せますから、光源氏を見ようという人たちが大勢集まってくるわけです。光源氏は行列を盛り上げるために選ばれました。

ただし、大将という重々しい源氏の職掌からすれば、これは格下の役目なんです。

川添 そうなんですね。

吉海 源氏本人にとっては、素直に喜べるものではありませんでした。言い換えればそれは、右大臣一派、新たに政権を取った右大臣一派による朱雀帝新体制の中で、源氏がこれまで朱雀帝の弟という立場にあったものが、臣下として据え直されたことを意味します。そういった政治的な駆け引きを背後に含みながら、斎院の御禊が表向き盛大に行われているのです。

ところで、みなさんは、車争いが起こったのは、祭の当日だと思っていませんか? これも結構、誤解してる人が多いんですけれども、本文に「御禊の日」とありました。これは祭以前の午(うま)または未(ひつじ)の日に行われる斎院御禊の日の出来事です。この日斎院は、鴨川で身を清める禊をします。ですから、祭の日は源氏は役目がなくて、その日は紫の上を連れて、葵祭見物を行っています。

川添 なるほど。

吉海 その御禊が終わると斎院一行は、一条大路を通って、紫野の斎院に入るわけですが、その行列見物のために、一条大路には桟敷が設けられ、また、立錐の余地もないほど物見車が立ち並んでいます。

普通、行列のメインは斎院その人ですが、今回は斎院ではなくて、光源氏が主役です。もうその美しい姿を一目拝もうと、わざわざ遠い国からも連れだって見物にやってきました。その意味では、光源氏起用は大成功だったといえます。

川添 大いに盛り上がったんでしょうね。

吉海 葵の上と六条御息所との車争いは、そういった特別な設定の中で起こっています。源氏の晴れ姿が見られるとあって、源氏と関わっている大勢の女性たちは見物にやってきました。急に思い立って見物にやってきた葵の上一行は準備不足で、場所の確保もしていませんでした。

そこは左大臣家(※4)の地位と権力に物を言わせて、身分低そうな牛車を無理やり立ち退かせます。たまたまそこに立ち退きを拒否する網代車(あじろぐるま)がありました。(立ち退きを拒否する際の表現で使われた)「口強く(くちごわく)」という言葉は、『源氏物語』が初出の言葉です。これもみなさん聞いた人は、最初は“えっ”と思ったかもしれません。さてこれは一体誰でしょうか?
※4 左大臣家は葵の上の実家

斎宮の母御息所、もの思し乱るる慰めにもやと、忍びて出でたまへるなりけり。つれなしづくれど、おのづから見知りぬ。「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿をぞ豪家には思ひきこゆらむ」など言ふを、その御方の人もまじれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。

(冒頭の)文末の「なりけり」とは、種明かしの言葉です。“実は御息所が乗っていたのですよ”と種明かししているのです。ここに御息所ではなくて、斎宮の母とあるのは、彼女の役割が女から母に変わったからです。ここで源氏との愛を諦め、娘に付き添っての伊勢下向を決意したことが読み取れます。

そうはいっても御息所の心は揺れていました。だからこそ、こっそりと源氏の晴れ姿を見物に来ていたのです。ところが何の因果か、葵の上一行とぶつかってしまいました。「おのづから見知りぬ」いうのは、葵側に正体がばれたということです。

(引用にある)豪家というのは、源氏の威勢を笠に着てということです。それは、正妻である葵の上には通用しません。ですから「さな言はせそ」と声がかかります。葵の上の供人たちは酒に酔った勢いもあって、とうとう強引に御息所の車を押しのけてしまいました。実は、お供の中には源氏付きの召使も混じっていましたが、下手な仲介をすると後が面倒とばかり、見て見ぬふりをします。

川添 ちょっと……私もなかなか理解が追い付いてない部分もあるんですけど、ちょっと登場人物のなんといいますか、人物相関関係みたいなのを、もう一度確認させていただいてもよろしいですか。

吉海 はい。要するにこの車争いは、正確には車の場所取り、所争いでした。それは光源氏を巡る葵の上と六条御息所の三角関係でもあります。この場合、葵の上は正妻、六条御息所は愛人に近いところですから、力の差は歴然としていました。

正妻が、お妾さんに権力の差を見せつけたわけです。しかしこの一件は、これだけでは済みませんでした。このときの屈辱的な敗北が、御息所の生霊を誘発する契機となり、出産を迎えた葵の上は、物の怪にとりつかれて亡くなるからです。

川添 もう本当に恐ろしい話ですね。

吉海 ここが逆にいえば見せ場になるんですけども、当時の物の怪というのは、この世に恨みを残して亡くなった人の死霊が一般的でした。菅原道真がその代表例です。ところが『源氏物語』は、初めて御息所の生霊を登場させました。当時の読者は驚いたにちがいありません。

さて、現在の葵祭は完全に観光行事化しておりまして、皇族の斎王ではなくて、民間から斎王代が選ばれています。必ずしも、平安朝のままではありません。しかしながら、もともと葵祭見物は当時も娯楽の一つであったわけですから、車争いにしても、フィクションの可能性があります。

ぜひ、葵祭を見物して、行列の華麗さと、見物人の賑わいの中に、ふと昔の車争いの喧騒を幻視してもらいたいと思っています。

川添 私はですね、現地で葵祭見物はしたことがないんですけど。

吉海 あらぁ(二人笑い)

川添 メディアで見聞きしていると、それこそもう本当に装束、衣装で、厳かな華やかなお祭りっていう、そんな印象ばかり思ってましたが、この車争いのようなお話なんかを耳にしてしまうと、また古典文学の中で描かれた場面っていうのを、ほかもいろいろ少しでも知っていくと、また別の見方ができそうかな、楽しみができそうかなというふうに、今お聞きして感じました。どうもありがとうございました。

本日は「京都旅のおともにしたい、古典文学」をテーマに、吉海直人先生にお話をお伺いしました。次回は最終回となります。京都の行楽と風水についてお話を伺っていきたいと思います。先生、本日はありがとうございました。

吉海 ありがとうございました。

川添 次回もよろしくお願いいたします。