現代につながる『源氏物語』の世界

現代につながる『源氏物語』の世界

大津 直子

表象文化学部 日本語日本文学科 准教授

#4 谷崎潤一郎訳から紐解く『源氏物語』【大津 直子】

谷崎潤一郎は小説家として自身の作品を発表するだけでなく、『源氏物語』の現代語訳にも情熱を注ぎ、戦中、戦後、そして最晩年に三種類の訳を発表しています。谷崎訳という観点からも『源氏物語』を研究する大津先生に、現代語訳の変遷からうかびあがる、各時代に相応しいとされた表現や世界観について、教えていただきました。

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川添 前回に引き続き、「現代につながる『源氏物語』の世界」をテーマにお話をお伺いするのは、表象文化学部日本語日本文学科准教授で、平安文学がご専門の大津直子先生です。本日もここ、京都にあります同志社女子大学のキャンパス内からお送りしていきます。それでは先生、よろしくお願いいたします。

大津 よろしくお願いします。

川添 これまでの3回で、『源氏物語』はどんな物語なのか、そして現代でも使われる(原文の)言葉と現代訳から物語、そして平安時代のことを読み解いてきたんですけれど、最終回にあたる今回は、第1回のときに少し先生からご紹介をいただいた谷崎潤一郎が訳する『源氏物語』について、お聞きしていきたいと思っております。大津先生は谷崎潤一郎が訳した「谷崎源氏」も研究されているんですよね。

大津 そうなんです。古典文学の研究者というと、基本的には古典作品そのものを対象とするのが普通なんですけれど、私はたまたま、大学院生時代に通っていた大学に、谷崎潤一郎の訳の草稿が寄贈されて、それ見た瞬間から資料として魅力的だなと思ったんです。それでこちらも研究しようということで、どちらも欲張りにやっています。

川添 すごい巡り合わせというか、運命的な出会いみたいな感じですか。

大津 そうなんです。まさか譲っていただけるとは思っていなかったというか。ちょうど研究のスランプに陥っていて。大学院時代というのは暗黒といいますか、論文を学会の雑誌に投稿しても、なかなか載せてもらえない、そうするとやっぱり落ち込むんですよ。(論文は自分の)全てを注ぎ込んで書くので、(どうしても当時は)自己否定みたいなところに陥りがちだったんです。けれど、その谷崎の資料を見たときに、谷崎の書いた文字を見て、「作家でこんなに地位を築いている人が、こんなに『源氏物語』の訳に力を注ぐのか」ということに、まずびっくりしまして。これを研究してみたいなという欲望が湧いてきました。

川添 それほど「谷崎源氏」が魅力あるものということなんですね。私も初めて知る内容になりますので、ぜひご説明をお伺いしたいと思うんですけれども。

大津 はい。谷崎訳ですが、大きく分けて3種類が存在しています。(訳文の種類は3種類なのですが)さまざまな形で価格とか本のサイズとか、デザインとかを変えて、何度も何度も出版されている中央公論社という出版社のロングベストセラーでもあると思います。一つ目は戦時下ですね。昭和14年から16年にかけて刊行された『潤一郎訳源氏物語』、通称で旧訳と呼ばれています。これは非常に特徴的な訳で、時局に配慮して、皇室や天皇を中心とした描写から不敬箇所、敬う気持ちが欠けてる描写を削除して刊行されたと、長らく言われてきました。ただ一方で、もう一つ特徴があり、原文が丸(句点)を打つ箇所もつなげる場合が散見され、かなり(原文から)自由に訳しています。

戦後、全訳化されたのが『潤一郎新訳源氏物語』というものです。同時に旧訳の特徴を撤回し、丸で切れるところを丸で切るという形で、正確さに軸足を置いた訳だと言われています。私はこの戦前のものと戦後直後のものを中心に研究をしています。いま一つは谷崎の晩年、昭和39年から40年くらいにかけて(刊行された)、かな遣いを現代のかな遣いに変えた『潤一郎訳源氏物語』。これは「新々訳」というふうに呼ばれていますけれど、この3種類が存在しています。

川添 なるほど。先生は旧訳と新訳、戦前戦後のこの2巻と言っていいんでしょうか。こちらのほうを研究されているということなんですけれども、今、「へぇ……」と思ったのは、戦前の旧訳で削除の箇所があったというところです。

大津 はい、戦時下は万世一系の天皇の高貴さを傷つけてはいけないという思想がありました。一方で『源氏物語』はすばらしい古典作品として、有名なところですとイギリスでアーサー・ウェイリーが『The Tale of Genji』(※)という英訳をして、それがイギリス社会にものすごく広まるわけです。
※1925年(大正14年)刊行開始。

ですが、物語の内容を見てみると天皇でない人が皇后と密通をして、その後に生まれた子が天皇になるという皇統乱脈の筋書きが中心なわけですから、日本の国家も困ったと思うんです。『源氏物語』は海外で高く評価されて、日本文化の水準の高さをアピールするのにすごく向いているというか、自然にそれが起きている一方で、天皇は万世一系であると(戦時中には)国内で言っている。だから『源氏物語』の位置づけが非常に不安定な時代に旧訳は生み落とされたことになります。

そしてさらに言うと、谷崎という作家も、独特な特徴がありますよね。悪魔主義と言われたりする谷崎という作家が、皇統乱脈の、しかも高貴な人たちの恋物語を描く物語を訳すということ、国家というか体制というか、政府がそのことを、非常に危機感を持って見ていたというのが、この研究のおもしろいところです。

川添 なるほど、そうなんですね。時代とともに3種類の訳があるということをご説明いただいたんですけども、今先生が一番興味を持っていらっしゃる、研究に注力されているのは、どういった点なんでしょうか。

大津 一つは、そもそもどんな箇所が問題だったかということです。通っていた大学に草稿が寄贈されたとお話ししたと思うんですが、その草稿調査をしたら、従来言われていることと、全然違う結果が出てきたんです。一つ目の問いとしては、その皇統乱脈、いわゆる皇族が出てこない箇所の削除が実は多かったという事実。それがなぜなのかというのが、一つ目の関心。二つ目の関心は、削除されたことが戦前批判されたから戦後に全訳化するという理屈はわかるんですけれど、それだけじゃなくて、谷崎がこだわった文体が新訳では変更されました。それは何で変わったのか、この二つの問題が気になり、調べてこのたびようやく本を出すことができました(『谷崎源氏の基礎的研究』武蔵野書院)。そこで解明したつもりです。

川添 そうなんですね。その二つの訳で、文体が変わったというお話があったと思うんですが、このラジオでお聴かせいただいて、少し理解できるものはありますか。

大津 特徴的な部分で、2種類の同じ箇所を音読してみたいと思うんですが、付き合っていただけますか。

川添 ぜひお願いします。

大津 音声なので本をお見せできないのが残念なんですけれど、谷崎は旧訳も新訳もすごく装幀にこだわりました。「こういうふうにしたい」というのを、出版社に伝える手紙も残っています。

大津先生がスタジオに持参された「谷崎源氏」。右から戦前に訳された旧訳、戦後の新訳、晩年の新々訳

大津 今から読む巻は『源氏物語』の「紅葉賀(もみじのが)」という巻(まき)の冒頭部分です。(原文では)短文で始まる箇所が、旧訳ではつながっているという特徴があります。それでは戦前の訳から読んでみます。

■「紅葉賀」原文
朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなり。世の常ならずおもしろかるべきたびのことなりければ、御方々物見たまはぬことを口惜しがりたまふ。
(新編日本古典文学全集『源氏物語』1巻311ページ)

■「紅葉賀」旧訳
朱雀院の行幸は十月(かんなづき)の十日あまりのことであつたが、此の度(たび)はなみなみならず面白い御儀式(おんぎしき)なので、后(きさき)や女御のおん方々は、御見物になれないのを口惜(くちお)しうお思ひになる。

大津 これが旧訳です。次に戦後の全訳化されたほうの新訳を読んでみたいと思います。

■「紅葉賀」新訳
朱雀院の行幸は十月(かんなづき)の十日あまりのことです。この度(たび)はなみなみならず面白い筈の御義(おんぎ)なので、后(きさき)や女御のおん方々は、御見物になれないのを残念にお思ひになります。

大津 どんな点が違うかお気づきでしょうか。

川添 新訳を聞くと、解説書を聞いてるような、割りと短文というか、パツパツと切れてわかりやすく、「説明されてるな」みたいな感じに聴き取れた感じがしました。

大津 すごく鋭いことをおっしゃっていると思うんです。新訳は『源氏物語』の原文で丸を打っている箇所に、同じように丸を打って文章を区切っています。旧訳、戦前の訳のほうは谷崎がつなげたいところは勝手につなげている。なので、わかりやすいのは新訳のほうなのかな、と。『源氏物語』というと文章が長いイメージがあるかもしれないんですけれど、短文で切るところは切れるんですね。ですが谷崎はそれをあえて続けていて、「この文体は流麗だ」と自分で言ってます。もう一つは新訳では「ですます調」になってます。

川添 確かにそうでしたね。

大津 聴いていて、柔らかくなってるかと思います。

川添 聴き取りやすいという感じがしました。旧訳のほうは流麗、流れるようにというのは、今、先生の音読を聴いて、確かに感じたところです。そのあたりは谷崎潤一郎のなんというのでしょうか、表現の仕方……彼が表現したいことのようなものが、すごく凝縮されてるのかなという感じも受けました。

大津 谷崎は作家生活が長いんです。これは私の専門外といいますか、近代文学の先生のお話を聞かれたほうがいいと思うんですけれど、昭和初期は(谷崎は)文体実験を繰り返していた時期だといわれています。また和文系のいわゆる歴史とか、日本文化にまつわるような作品がすごくたくさん書かれた時期。特に昭和8年の『春琴抄』は非常に文壇でも歓迎されて絶賛を浴びる。そういう中でどういう文体が日本の文章、日本文として美しいかということをすごく考えていた時期なんです。もう一つこの時期、谷崎は一つの危惧を抱いていて、当時の若者、昭和初期の若者が翻訳文学、海外の文学がすばらしいと思って翻訳されたものを読むのですが、その翻訳された文学の、翻訳の文章がひどいということをすごく心配して、『饒舌録』という作品の中で書いていたりするんです。

そういう若い人たちが、『源氏物語』を現代小説のように読めるようにしたいというのが、多分「谷崎源氏」のモチベーションにあったと思うんです。具体的には、海外の文章というのはいちいち主語を入れる。お天気にも「it」を使うし、日本文にはいらないのに、いちいち主語を入れるのがうるさいというのです。もう一つは(欧米の言語は)会話文にクォーテーションマーク(=引用符)をつける。そのかぎかっこが日本の小説にもいっぱい現れて、それも(谷崎は)汚いと思っていたようです。この二点を解消するための文体が流麗なんだろうと。そういう形で文体を創出したというのが、旧訳のおもしろいところかなと。

川添 なるほど、機械的じゃないということですよね。

大津 だから、すごく考えたと思います。どこで点を打つのか、どこに丸を打つのかを、すごく工夫したんだと思うんです。ただ残念ながら、まだその解明には私も含めて、まだたどり着いていない。

川添 奥が深いんですね。先生、「谷崎源氏」のことで先日、本も出版されたところというお話もありましたけれども、今後この分野でもっと突き詰めていきたいと今思われてる部分ってどんなところですか。

大津 一つは、最初の戦時下の訳は、谷崎自身が「文学的翻訳」って自分で言っているんですね。戦後の訳ではその文体を撤回するんですけれど、その特徴がまだつかみ切れていないんです。このたび1冊、結構、厚い本を書いたんですけれど、(谷崎が)結局何を「文学的」として、(訳文に)どんな特徴を宿したのかをまだ解明しきれてない。これは私だけではなくて、最新の谷崎潤一郎の全集に「谷崎源氏」は入っていないことからもわかるように、あまり「谷崎源氏」は注目され、研究の対象となることがなかった。まだまだやらなきゃいけないことだらけです。あと草稿もまだ3分の1を完全に見たかなというぐらいで。分量がすごいのでまだやらなきゃいけない。

あとはなんで作家が、そもそも『源氏』を訳するのかという問題はすごくあるかなと。谷崎の後も、円地文子ですとか田辺聖子ですとかが、訳していますよね。そういう人たちはなぜ前の作家のものじゃだめなのか。おもしろいところでは、実は川端康成も『源氏』を訳そうとしていたんですよ。ですが、できなかった。そのことを聞いた円地文子が「ノーベル賞をもらって甘やかされてる人に、源氏訳みたいなしんどい仕事ができるわけがない」って。「彼がそんなことをできたら、私は銀座を裸で逆立ちして歩いてやる」と言ったというエピソードを瀬戸内寂聴が書き残しています。そういう作家同士の『源氏』を巡る緊張関係というものがあります。

あと「谷崎源氏」を読んで育った作家たちって結構いるわけです。だとすると、幼少期に「谷崎源氏」を読んだ影響が、そういう作家たちの文体に影響を及ぼした可能性もあるのではないのかとか。こうした検証は私一人ではできないことですし、共同で(研究を)やっていきたいなと思っています。翻訳研究の世界で言われることなんですが、有名な作家の場合、名義貸しをすることがままあるんです。名前だけ貸して、下訳をこれから文筆業で身を立てたい人のために渡すということもあるわけです。だから共同で作られたものが個人の作家訳として出ることはままあるんですけれど、「谷崎源氏」の場合は草稿が残っているので、誰がどんな形で訳文に関与したかという検証が可能なんですね。そういう点も、やっていてすごくおもしろいとこでもあります。

川添 まだまだ、突き詰めないといけないことが盛りだくさんですね。

大津 そうなんですよ。(谷崎源氏は)国文学者とか、古典の研究者がいろいろ進言した形で作られています。古典研究の過渡期というか、戦前から戦後にかけての古典研究の盛り返しのところとも時期が重なっているので、逆に「谷崎源氏」が古典研究に影響した可能性があるいうことも、古典研究者としてはおもしろい部分でもあります。

川添 いろいろな作家さんが、どうしても注目してしまう『源氏物語』という作品、もちろん先生のような研究者の方々も目が向いてしまう作品。それぐらい『源氏物語』という作品の奥深さだったり、おもしろさだったりというのは、突き詰めても、突き詰めきれない、いろいろな解釈の仕方もきっとあるんだろうし、時代が変わっていくと、その時代によってもまたいろいろな見え方がしてくるところもあるんだろうなと、そんな魅力をこの4回にわたってお聞きできたように思いました。ありがとうございます。

最後、先生からリスナーの皆さんに、お伝えしたいことがあれば、ぜひお聞きしたいんですけれども。

大津 『源氏物語』を気楽に読んでみようというか。1巻目から全巻読まなきゃいけないとか、訳じゃだめだ(原文にトライしないといけない)と厳密になってしまうと、すごく堅苦しくて遠いものになってしまうんです。けれど、訳から読んでもいいと思いますし、好きな作中人物が出てくる巻から読んでもいいと思うんです。もし解説が必要だったら、講座に行ってみるとか。『源氏物語』は生み出されてから千年の間にさまざまに権威付けされてきた背景があるので、すごく敷居が高い作品と思われがちです。でもマンガの『あさきゆめみし』から入ってもいいと思いますし、それこそ大河ドラマ『光る君へ』から入ってもいいと思います。「原文がどうなってるんだろう」という形で、逆に探っていくことによって、敷居が下がるといいなって思っています。

あと、日本人こそが『源氏物語』をわかるという(固定観念に縛られると)、もうこれからの時代は語弊がある。外国の出身の方や外国ルーツの方が『源氏』を訳すという場合もあるし、(この作品は)全世界で訳されているという背景がある。作品のどんな点をおもしろく思うのかというのは、たぶん育ってきた文化によって違うと思うんです。だから、もっと敷居を下げて、いろいろな背景を持った人たちと一緒に読んでみたいなというふうに、今すごく思っています。

川添 ありがとうございます。私は正直、今回この番組を収録する前から、(古典に対して)苦手意識ばかりだったので、ついていけるかどうかと思っていたんですけれど、でも今回、先生から4回お話を伺って、「ちょっと踏み出せるかもしれない、この機会だから何か読むことができるかもしれない」ってちょっと勇気づけられた部分があります。少しでも、古典に触れてみたいなと感じられました。どうもありがとうございました。

大津 ありがとうございました。

川添 これまで4回にわたって「現代につながる『源氏物語』の世界」をテーマに大津直子先生にお話をお伺いしてきました。改めまして先生どうもありがとうございました。