#1 『伊勢物語』に隠された京都との密接な関係【吉海 直人】
学生時代に多くの人が学んだ『伊勢物語』。吉海先生によると、京都なしでは語れない作品なのだそう。その理由とは……? 平安時代における鴨川と隅田川で見える景色の違いなど、古典文学から思いがけない発見があるはずです。吉海先生による朗読で、古典の響きもお楽しみください。
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※色付き部分
は古典の引用です
川添 吉海先生、よろしくお願いいたします。
吉海 こんにちは。同志社女子大学の吉海です。私は日本の古典、とくに平安時代の文学を専門に研究しています。今回は、京都で書かれた古典文学を題材にして、みなさんに古典のおもしろさをお伝えし、京都を楽しむ際の参考にしていただければと思っています。
川添 はい。ありがとうございます。
吉海 今回取り上げるのは『伊勢物語』です。
川添 『伊勢物語』と言いますと、在原業平が登場する古典文学でしたでしょうか?
吉海 はい、そうです。ただし、『伊勢物語』の中では(在原業平は)「昔、男」という形で書かれています。私が古典を研究しているのは、古典が京都で書かれただけではなくて、(古典の当時の)読者にしても、京都で生活しているほんの一握りの人が対象になっていることがわかったからです。これは『伊勢物語』第九段、いわゆる東下り章段を読んで気がつきました。
私は九州、福岡の高校で古文を習いました。そのときは、日本全国どこで習おうとも、大して違いはないと思っていました。ところが、そうではなくて、作品自体が特定の読者を対象にしていたのです。問題の『伊勢物語』第九段は、「昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり」
と語られています。京都でのくらしに嫌気がさした男が、東国に下向する話ですけれども、その段の中ほどに富士山が出てきます。
本文には、「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。『時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ』。その山は、ここにたとへば、比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほどして、なりは塩尻のやうになむありける」
とあります。
川添 この最後に出てきた“塩尻”というのは、何なんでしょうか?
吉海 これは塩を作るために砂を円錐状に盛り上げたものです。ちょうどすり鉢を伏せた形になっておりまして、富士山の姿を想像させてくれます。
そこでですね、問題なんですけれども、おそらく昔男の一行は、初めて富士山を見ました。旧暦の「五月のつごもり」というのは、夏の真っ盛りです。それにもかかわらず、富士山には雪が「いと白う」積もっていた、というのです。それが実は残雪であることもわからず、今見えている雪は、当然、直前に降ったと認識したのでしょう。そこで「時しらぬ」と歌いました。「時しらぬ」というのは、季節外れというか、四季をわきまえないという意味です。
川添 なるほど。
吉海 注目してほしいのは、その次なんですけれども。そもそも平安朝の貴族は、平安京の外には出たがりませんでした。ですから、富士山を直接見た人は、まずいなかった。そのために『伊勢物語』では、その富士山の姿や大きさを何とか伝えようとしています。
大事なのは比叡です。標高848mの比叡の山を、はたち、二十ですね、重ねたらとんでもない高さになります。エベレストよりももっと高い山になりますが、これは誇張表現です。一番のポイントは、さりげなく「ここにたとへば」とあることです。
古文の教科書でも、最近はこれを設問としているものが少なくありません。指示代名詞の“ここ”というのは、普通だったら、昔男のいる場所になります。しかしそれでは富士山の説明にはなりません。説明の奇妙さに気づいてください。
どうやらこの場合、昔男の視点ではなくて、(当時の)読者の視点に立脚しての“ここ”と見なければならないようです。この読者とは、京都の人です。もっと言えば常日頃、比叡山を見知っている人のことです。これによって『伊勢物語』の読者は、比叡山を知っている、比叡山が見えるところに住んでいる京都の人に限定されていることがわかります。
川添 あぁ、なるほど。
吉海 比叡山が見えないところに住んでる人は、『伊勢物語』の読者とは見なされていなかった。というより、比叡山を知らなければ、富士山の説明になりません。日本全国に向けて発信されてはいないのです。私は福岡(県民)だったので、『伊勢物語』の読者には含まれていなかったことを知ってショックを受けます。
川添 そうなんですね(笑)。これは昔男も初めて富士山を見たし、初めて見た富士山のことを、“塩尻のように”ということで(形を表現した)。しかも比叡を二十ばかり積み重ねた高さ。読者側としては、京にいる人間(が該当する)。
吉海 つまり、知ってるもので知らないものを、想像する。知らないもので知らないものを想像しても、これはわからないわけですものね。
川添 そうですよね。
吉海 ですから、知ってるものとして比叡が出ているということは、比叡を知ってる人が読者だということになるわけです。
川添 確かに、日本国中の人に向けて(『伊勢物語』を)発信していれば、比叡山って例えにあげても、まだわからないですからね。
吉海 わからないですよね(笑)。そういうことなんです。
川添 なるほど。おもしろいですね。
吉海 その全く逆の体験もあります。私は東京の大学に進学したんですけれども、入学早々、隅田川の言問橋(ことといばし)に都鳥を見物に出かけました。東下り章段の後半で、昔男は隅田川までやってきます。「なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、とわびあへるに、渡守、『はや船に乗れ、日も暮れぬ』といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず」
はるばるここまでやって来たことを、「限りなく遠くも来にけるかな」と嘆いています。私もはるばる九州から上京したばかりだったので、昔男と同じ気持ちで隅田川のほとりにたたずみました。平安時代は隅田川の手前、武蔵の国は今の東京です。そこまでが天皇の統治が届くところで、川を越えた向こう……下つ総は千葉県ですが、もはや地の果て外国のようなものと思われていました。
文学における川は、境界線の役割を担っていると思ってください。だからこそ、感慨ひとしおなのです。すると、風流を解さない武骨な渡守が「はや船に乗れ、日も暮れぬ」と発言して、その場の雰囲気をぶち壊します。
川添 (笑)
吉海 ところで、ここに「日も暮れぬ」とありますが、みなさんはどう解釈されましたか。昔は「ぬ」を完了の助動詞ととって、日も暮れてしまったと訳していました。
川添 何かそのように習った記憶があります。
吉海 (そう訳すると)ここで日が暮れて、暗くなったことになります。ところが、船に乗った後に、「さるをりしも、白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見しらず。渡守に問ひければ、『これなむ都鳥』といふを聞きて、『名にしおはばいざ言問はむみやこどりわが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、船こぞりて泣きにけり」
とあります。暗くなっているはずなのに、鳥の白や赤い色が見えていますね。おかしいと思いませか?
川添 暗いはずですけどね。
吉海 そこで最近は、この「ぬ」を完了と取らずに、確述、確かにそうなることを予測して、“日が暮れそうだ”という訳になります。これならまだ暗くなっていないので、鳥も見えます。こういった「ぬ」も、古典にしばしば見られるので、注意してください。
さて、ここでおもしろいのは、鳥の名前が“都鳥”だということです。京都から下ってきた昔男を含めて、みな人が「京には見えぬ鳥」だと言っているのに、京都も知らないはずの渡守は得意げに、「これなむ都鳥」と告げています。
ここで、忘れようとしていた“都”という言葉を聞いた昔男は、感に堪えず歌を詠みます。もちろん、「いざ言問はむ」とは都鳥に向かって質問しているようでありながら、都鳥には通じません。聞いているのは、一緒にここまでやってきた友人たちです。
ここに、「いざ言問はむ」とあることから、後に、言問橋という名が付けられました。昔男の歌を耳にした一行は共感の涙を流します。「船こぞりて泣きにけり」とありますが、ここで泣いているのは、京に愛する人を残して、昔男と一緒に東まで下ってきた人たちでしょう。
では、武骨な船頭も一緒に泣いているのでしょうか? それとも泣いてなどいないで、しらけていると読むべきなのでしょうか。
川添 どちらでしょうね(笑)
吉海 さてここからが本題です。昔男は都鳥を見て、「京には見えぬ鳥」と言いました。だからこそ、富士山と同じように、都鳥を知らないであろう京都の読者に向かって、「白き鳥の、はしとあしと赤き、鴫の大きさなる」と説明しているのです。
京都にいないのですから、(都鳥のことは)誰も知りません。ここでは、昔男に望郷の思いを抱かせるために都鳥という名前で登場させているのです。この鳥は現在、「ゆりかもめ」という鳥だとされています。これは冬になると、カムチャッカ半島から日本に渡ってきて、4月下旬になると、日本から去っていく渡り鳥です。
私が隅田川に行ったのが、ちょうど4月だったので、かろうじて(都鳥=ゆりかもめを)見ることができました。もう少し遅かったら、いなくなっていたはずです。もう一つ、体が白いのは冬毛のときだけで、夏毛になるとガングロ、つまり顔が真っ黒になります。
川添 そうなんですね。知らなかった。
吉海 夏毛のときに見ると、(『伊勢物語』における)都鳥幻想は崩れてしまいます。都鳥はいつも白い鳥でいてほしいですね。
川添 そうですね。ゆりかもめと聞いたら、なおさらそう思いますね。
吉海 この都鳥幻想が、異常気象によって崩される事態が起きてしまいました。
1974年以降、なんと、琵琶湖から鴨川に飛来するようになったのです。それから50年近くたちました。今では、(鴨川のゆりかもめは)餌付けされてしまい、むしろ京都の冬の風物詩にまでなっているありさまです。
これでは『伊勢物語』の記述が嘘になってしまいます。『伊勢物語』を愛好するものとしては、京都で都鳥は見たくない。いつまでも「京には見えぬ鳥」であってほしい。そして私がそうしたように、わざわざ上京して、隅田川のほとりで都鳥を見てほしいと願っています。みなさんはいかがでしょうか?
川添 おもしろいですね。京都でゆりかもめを見かけてしまったら、それはもう『伊勢物語』の読者とは違う景色を、今見ているっていうことになるんですね。
吉海 今回は『伊勢物語』第九段を取り上げて、富士山の説明から京都が古典の読者であることを述べました。また、都鳥に注目して「京には見えぬ鳥」の変容を述べてみました。当時の読者に近づくこと、これが古典を読む際の注意点でもあります。
川添 なるほど。ありがとうございます。初めて、富士山のことと都鳥のくだりをお聞きして、(『伊勢物語』が)京都の人に向けた物語だったということを知れたことが、本当に新鮮なお話でした。ありがとうございました。
吉海 ありがとうございました。
川添 本日は「京都旅のお供にしたい古典文学」をテーマに、吉海直人先生にお伺いしてきました。次回ですが、「日本の美意識と花」についてお話を伺っていきたいと思っております。先生、本日はありがとうございました。また次回もよろしくお願いいたします。